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2012年9月1日土曜日

経済とは、民を済うこと。いかにして世を治めるかが問題

世濟民(けいせいさいみん、経世済民)とは、中国古典に登場する語で、文字通りには「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。
-Wikipediaより抜粋 -

上記の如く、経済とは

「世を治め、民を済う」

ことである。
しかし、今は苦しみしかもたらしていない。

世を治めるということができていないからだ。
いかにして世を治めるかということが古来考えられてきた。
国民は主権を手にしたが、本当に手にしているのだろうか?
確かに選挙権は持っているが、国民が期待したことは蔑ろにされ、
期待していないことばかりが実現されていく。
そして、政治に期待感はなくなる。
自殺者も13年連続で3万人を超えている。
この数は、昨今の戦争でもない数字だ。
戦争以上の人が、この平和な日本で自ら死を選んでいる。

いかにして世を治めるのか?
それは、『国民のために真に何をすべきか』に立ち返るしかない。
それは決して消費税なんかの問題ではない。
ましてや、衆議院の議員数の問題でもない。

いかに暮らしやすい世の中を作るいかということだ。

2012年7月3日火曜日

荀子の言葉

宮城谷昌光さんの「奇貨居くべし」・・・何度目の復習だろうか?
「孟嘗君」が一押しだったのだが、
ここ数年は「奇貨居くべし」が一押し。
荀子の存在があるからだろうか?
ものすごい深い話に、何度読んでもお宝を発見できる。

「天下に名が知られるようになったら、天下とともに仁を楽しめ。
天下に名が知られなければ、かい然として天地のあいだに独立して、畏れてはならぬ。」

前回に続き、これも荀子から孟嘗君への言葉である。

そう、名を売るということ、これは昨今、パーソナルブランディングという言葉が流行りにように、
非常に重要なことかもしれない。
名が広まっていることは、何事かを為すときに、大きなアドバンテージとなる。

しかし、名が通っていなくても、
堂々と独立していればいいのだ!
と、当たり前のことながらも、
大きく背中を押してくれる言葉である。

やるべきことをやる。
そして、結果によって何も変える必要などない。

何も畏れることはない。


奇貨居くべし―火雲篇 (中公文庫)

本当の「こころざし』とは?

「花をみよ。早く咲けば早く散らざるを得ない。
人目を惹くほど咲き誇れば人に手折られやすい。
人もそうだ。
願いやこころざしは、秘すものだ。
早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。
秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。
なんじには、まだ、こころざしがない。」
『奇貨居くべし(火雲篇)』宮城谷昌光

これは、荀子が少年・呂不韋にかけた言葉だ。
呂不韋は、後に秦の中国統一のきっかけといってもいい存在となる。

自分は、
人に言えば、前に進まざるを得なくなると思い、
自分のこころざしを多くの人に伝えてきた。
しかし、振り返ってみれば、それは軽いものだったのかもしれない。

秘蔵せざるをえない重さをもったこころざしを、
心に秘めて、
再度、チャレンジしてみたい。

本気で進めば、
雑音など気にならなくなることは間違いない。

時間も大切にするに違いない。

人とのつきあいも打算ではなく、
大事にするに違いない。




奇貨居くべし―火雲篇 (中公文庫)

2012年6月11日月曜日

カントのいう『専制』が日本で起きている

『厳密にいうと民主制は必然的に専制になる。
というのは民主制の行政権のもとでは、
一人(同意しない者)がいても
全員の賛同とひとしく、
その結果として、
全員ではない全員が決めていくことになる。』
「永遠平和のために」カント 集英社
 
まさにこの言葉が響く昨今だ。
多くの国民、多くの政治家が反対しても、
原発は再稼働する。

民主制という国の仕組みからして、
カントがいう専制にならざるをえないということは理解できる。
建前では、それは国民が選んだということになる。
しかし、ヒトラーも国民が選んだ。

今、世界は結果的には、民主主義が最も優れた仕組みと考えている。
しかし、新たな仕組みというものを考えてもいい時代にきているような気もする。

永遠平和のために


2012年6月5日火曜日

自らを律する人がこれからの時代に必要だ

スティーブ・ジョブズはアナーキーな状態のアップルに「責任」という概念を持ち込み、最悪の状態から、世界一の企業に育て上げた。

『アップルには自由な反面、意外なほど厳格な部分もあります。・・・上司からの業務命令は絶対で「右向け右」と言われたら右を向かないと辞めさせられると言っても大げさではないほどなのです』
                  「僕がアップルで学んだこと」松井博 アスキー新書より引用

多くの会社にはこの当たり前の概念の「責任」というものがない。また、アップルのような業務命令に絶対という厳しさもない会社も多い。

責任を果たさず、業務命令にも従わず、自らの権利だけを声高に述べる人は多い。

人間は弱い。
ラクな環境があれば、そちらへ逃げようとする。
それを制約することは、なければそれに越したことはないが、必要悪の一つだ。

会社が本当に社員のことを考えれば、
この「責任」を果たさせることや、制約を課すことは、
その人にとってプラスになるはずだ。
この本に書かれているように、自由だけが、人の創造性などを伸ばすわけではない。

しかし、残念ながら、会社も社員のことを本当に考えているとはいえない。 
社員の要望に答えるだけが社員のことを考えているということにはならない。
社員に徹底的に厳しくすることも社員のことを考えているということにはならない。
中庸が大事だ。。。

このように考えると、やはり会社という組織自体が、
もう少しで賞味期限切れになるのかもしれない。
会社は学校ではない。
様々なルールを作り、それに従わないものには罰を与える。
当たり前のことなのかもしれないが、嘆かわしいことだ。

人は自らの力で自分を律することができるはずだ。
増長しないこと、責任を果たすこと・・・。


僕がアップルで学んだこと 環境を整えれば人が変わる、組織が変わる (アスキー新書)




2012年5月28日月曜日

独立国家のつくりかた

『やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。しかも、それは実はすべての人が持っているものだ。絶対に。なぜなら人間は考える葦というじゃないか。考えているのだ。自分の得意なこととかやりたいこととかはどうでもよくて、ただ考えている。それを口に出す』
-「独立国家のつくりかた」坂口恭平より引用-

「やりたいことをやる」
ということがいいのだ!ということが昨今言われてきた。
しかし、著者はそれを一歩進めているように感じる。
「自分がやらないと誰がやるということをやらないといけない」
と言っている。
それも、それはすべての人が持っているという。

自分がやらないといけないこと、考えるだけでも、いくつも浮かぶ。

いつの間にやら、
いろいろな言い訳、逃げを行なってきたようだ。

すべての人が、自分がやらないと誰がやる、ということをやれば、
日本だけでなく、世界が変わるはずだ。

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

2012年5月22日火曜日

小さな人にならないために

(荘子)に言わせれば、世間でもてはやされる知識や能力は、
しょせん「小知」にすぎないのだという。
なまじそんなものを持てば、
いたずらに人間を傲慢にし、
他人を見下して、いさかいが絶えなくなる。
その結果、人を傷つけ、わが身を破滅させることにもなりかねない』
 (『荘子の人間学』守屋洋より引用)

とても耳に痛い言葉だ。
会社で使える知識や能力など大したことはない。
どの人も、そう大差ない能力しかない。
なのに、偉い人、偉くない人という差が生じ、
命令する側と命令される側に別れる。

こういう人を誰もが頭に浮かぶほど、
多いのではないだろうか?
自らの反省もしなければならない。
荘子の視点からみれば、恥ずかしい限りだ。

の中では荘子の言うところの知識や能力がもてはやされがちだ。
そんな能力や知識は荘子に言わせれば「小知」でしかない。
「小知」にとらわれた人間は愚かでしかない。
その愚かさから免れるには「大知」を目指すしかない。

『「大知」を身につければ、
すべてのものをあるがままに受け入れて、
みだりに小細工を弄さなくなる。
自他の差別にもとらわれず、
すべてのものを大きく包み込んでいく。
些細な知識や能力を鼻にかけて、
人を見下すこともしなくなる』
 (『荘子の人間学』守屋洋より引用)

まらない世の中で生きていくのに、
せめて「大知」を身に付けて、飄々と生きたいものだ。


「荘子」の人間学


2012年5月21日月曜日

自由な生活は決して自由ではないが、その自由を考えることは無駄ではない

前回のブログでは荘子が”自由”を選んだという話をしたが、
”自由”とは実際に”自由”ではない。

例えば、憲法では、様々な自由が保証されているが、
完全な自由ということを意味しない。
それは、”公共の福祉”や”平等”という別概念に制限される。

また、荘子は”自由”を選んだ代償として、貧乏を余儀なくされた。
貧しさは、

何でも買える自由
どこでも行ける自由

食べたいものも食べる自由
いいところに住む自由
・・・

多くの自由を制限する。
よって、”自由”を選んだとしても、
それは”自由”では決してない。

そのかわり、

人のいいなりにならなくてもいい
意に沿わないことをしなくてもいい
わずらわしいこと、人とのつきあいを遮断できる
どうでもいいことに悩まなくてもいい
・・・

という”自由”は得られる。

どんな”自由”を選ぶのか?
後者を選んだのが荘子である。

ノマドワーカーやフリーエージェントも荘子に近い自由を選んだのだろう。

ストレス社会といわれ、うつ病も人類の歴史上かつてないほど、
多くの人がかかっていると思われる社会。
この社会において、こういう”自由”は検討するに値する。




荘子とスティーブ・ジョブズの言葉にしびれてみる

荘子は春秋戦国時代に生きたとされるが、
名声を聞きつけた国から宰相に請われたことがある。
荘子はそれを断る。
自由を選んだのだ。
自由を選ぶことは決して楽なことではない。
生活も段違いである。
宰相といえば、今でいう総理大臣のような立場である。
人民が到達できる最高位である。
そんな生活よりも自由で、貧乏な生活を選んだ。
荘子は、疲れる日常よりも、自由で貧乏な日常を選んだ。

この荘子の選択は、
会社で上司の顔色を伺いながらコツコツと出世していくこと選ぶのではなく、
現在のノマド生活、フリーエージェントの生活を選ぶことに似ていないだろうか?

どちらが正しいということではないのかもしれない。

辛いけど、煩わしい社会の中で生き、ストレスを感じながら、
日々疲れるけれども、生活は安定するという選択。

自由で気ままで、人との関係でのストレスはないが、
貧乏で、安定しない生活。

どちらを選ぶかは、それぞれの人の選択次第だろう。
どちらのメリットもデメリットも消そうと思えば消せる可能性もある。

こういうことを考えて、
これからの人生を考えることも、
たまにはいいのかもしれない。

荘子や老子は、大きな目で見れば、
日々のつまらぬ不安や不満は、どれもくだらないことに見えるとも言っている。
こんなことで悩むこと自体も、彼らにはつまらぬことなのかもしれない。

スティーブ・ジョブズの言葉
『今日が人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいか?』
も、荘子の思想につながる言葉なのかもしれない。


「荘子」の人間学

2012年5月15日火曜日

組織拡大のための秘訣

社会においてももちろんそうだろうが、
企業組織において”人を信じる”ということは非常に重要である。

”人を信じる”から、人に仕事を任せることができる。
”人を信じる”から、組織は大きくなれる。
”人を信じる”から、売上も多くなる。
”人を信じる”から、利益も多くなる。
人を信じないことには、会社は大きくならない。

しかし、人に仕事を任せられないという人は多い。
理由は、

「自分の仕事がなくなるから」
「危なくて任せられない」
「大事な仕事だから」・・・
これはすべて間違った考えだ。

今までやってきた仕事を人に任せて、
自らは自らの新しい価値を見出せばいい。

大事な仕事ができる人を増やすことが、
組織の強さになり、会社の強さになる。

また、経営者でも”人を信じる”ということができない人は多々いる。
特に創業経営者に多く感じる。
これまで1人でやってきた自負もプライドもあるのだろうが、
これでは、会社は大きくなれないし、
いつまでも最下層の仕事を社長がやっていなければならなくなる。
そして、人を信じない経営者には、人はついてこなくなる。
これは、組織崩壊につながる。

”人を信じる”ということは、簡単そうで難しい。
そして、信じた結果、裏切られることも多い。
というよりは、ほとんどがそのケースになるのかもしれない。
しかし、それでも、”人を信じる”ということをしなければ、
会社の拡大は果たせない。

であれば、

裏切られようが、”人を信じる”しかない!

2012年5月14日月曜日

ノマドブームの原点は「人に仕えることは人に縛られること」

『人に仕えることは、人に縛られることだ』

この言葉は、『奇貨居くべし(春風篇)』宮城谷昌光の一節である。
私にとって、この言葉はこの5冊もの長編のなかで、最も心に残る一節となる。
長きに渡り、私も会社に所属してきた。
そして経営層として取り立てていただき、多くの勉強をさせていただいた。
多大なる感謝もあるが、やはり、残念なことに、
この言葉をどうしても思い出さざるを得ない場面は多々生じる。

当たり前のことなのかもしれない。
資本主義社会において、資本家が一番の権力者である。
中小企業においては、ほとんどの場合は資本家=社長である。

この小説の主人公である呂不韋は、更に思う。
『・・・官途において累進するということは、自己の表現のはばを広げるというより、むしろ逆で、自分を殺し続けることになるのではないか。それなら、高官になりたいという夢は棄てた方がよい。ただ高位にすわるのは、いたって不自由で、人の情をうしなった自己である。』

これは、小さな企業から国家において、現在も当てはまる言葉ではないだろうか?
不自由さ、人の情を失うことを避けたい人が、
フリーエージェントになることを求め始めたのが、

ただ、これは、
「自由にやりたきゃ、一人でやればいい」
という簡単な言葉で済むことではない。

松下幸之助氏のように、人の意見を尊重して経営を行なってきた人もいる。
自己のはばを広げられる居場所もないわけではないと思っているし、思いたい。
自分を殺し続けることになるぐらいの居場所であれと思う人は、、
やはり今の居場所は棄てた方がいいのかもしれない。


奇貨居くべし―春風篇 (中公文庫)

2012年5月13日日曜日

人に仕えるということ

『主に仕えるのであれば、わが身の外をもってではなく、内をもってすべきだとおもいます』

これは、宮城谷昌光氏「奇貨居くべし(春風篇)」の一節だ。

『従業員も千差万別である。巧言を呈する者を近くにおけば気分はよく、その巧智を商売にまわしてみると、おもったほどの成果をもたらさない。・・・ほんとうに主人を喜ばせる者とはそういう者たつまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃に値する。・・・』


これを読んだときに、いかに外をもって仕える人が現代には多いかということが頭をかすめた。確かに、既に時代は違う。この本は紀元前のことが書かれている。

しかし、”人が人に仕える”ということは、別に時代が変わろうが、本質は変わらない。

ただ、仕える側だけではない。
”主”の方も、おかしくなっているのが現代なのかもしれない。
仕える側が”内”をもって仕えていても、”主”の側は何も考えていないというケースも非常に多い。
その場合の仕える側の落胆は、想像に難くない。
絶望でしかない。

時代は変わっても、
主従の本質的な関係は変わらないと思う。

もう一度、人間の歴史を見直し、
人としての生き方を見直すべきではないだろうか?